【2020年2月】
ある意味、なんでもないと思う作品でも嗚咽が止まらないことが多くなった。歳のせいか、と思う。
鹿児島テレビが20年前に放映した「わが心の集団就職列車」という番組がYouTubeにアップされていたので、懐かしく視聴した。
1955年(昭和31)の鹿児島駅発の中学生集団就職列車の記録。私より四歳上の人達だ。私たちの世代は中学生卒業で就職するものが大勢いた。こうした集団列車に乗ったかは知らないけれど私の同級生の幾人かも大阪や名古屋方面に旅立った。
小さな炭鉱で父は働いていた。5人兄弟の長男でもあった私は、中学卒業で就職し働き家族のために尽くすことが当然のことだった。ところが、当時、日本育英会の奨学金は、月額1000円であったが、幸いにも新設された月額3000円という特別制度を受給できるようになり、恩師が親を必死に口説いてくれてアルバイトが十分できる近くの高校に進学した。これがなければ、私は関西のある大手企業の養成工になるため、こうした列車に乗り関西へ旅立っていたのだ。今や、名前を忘れた中卒就職の同級生達が、その後、どうしているか、いつまでも心から離れない。
中卒で故郷を離れたのは、中卒と同時ではなく、当初は地元で働いていた青年もいる。高度成長期のなかで、石油にとって代わられ、炭鉱は斜陽化した。炭鉱で働いていた青年も故郷を離れ、列車に乗って「都会」に向かった。幾人かの従兄妹(いとこ)もそうだ。そうした遠き日の思い出が昨日のようによみがえる。埼玉や大阪に転職を求めた従兄妹のうち、5人はあの世に旅立った。まったく会うこともない就職列車で行った同級生は、今、どうしているのだろう。
そんな感慨にふけっていると、シーンは、その後、彼らはどうしているのかという現在の報道に代わり、そのなかで同窓会が紹介されていた。生まれ故郷ではなく、就職した地で交友を温めているとのこと。そして二人の女性が紹介された。「ここにくると、必ず歌う歌がある」という。歌いだした。
♪泣くな妹よ 妹よ泣くな 泣けば幼い 二人して 故郷を棄てた かいがない
もう、涙が止まらない。中学生卒業とともに故郷を離れ、大阪、東京などに就職し結婚し子どもが生まれ、そこを故郷として生きてきた人達の思いはいかばかりか。
私は、生まれ故郷で暮らしたのは2歳まで。あとは、炭鉱が閉山するたびに、宇部、小倉、そして宇部、高校を卒業して以後、下関。強烈に「ここが故郷」など、ないのに、この歌を聴いていたら涙があふれる。
唄の一節ぐらいは知っていたけど、昭和12年(1937年)に古賀政男が作曲した「人生の並木道」と言うそうだ。戦前、貧乏故、故郷を捨て開拓団など中国大陸に渡った人々の気持ちを唄ったものではないだろうか。
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卒業の記念写真(1960年) | 運動会 |
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