市議会で故明石議員を追悼
3月3日、市議会本会議場に故明石議員のご遺族をお迎えし、追悼を行いました。全員起立の上、ご遺族を迎えた後、黙祷をささげ議会を代表して私が追悼の言葉を述べました。
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去る1月14日にご逝去された、故明石弘史議員を偲び、ただいま、本議場にご遺族の胸に抱かれておられるご遺影を前に、議員一同を代表して、哀悼の言葉を申し上げます。
あなたは、12月市議会において委員会審議を無事務め、11日の一般質問では、通告に従い、「子ども子育て支援制度」を中心に、いつもと変わらず、激することもなく論旨を誤ることもなく、論戦を繰り広げました。その姿が最後のあなたと誰が思ったでしょうか。翌日、入院され、1ヶ月後には、還らぬ人となりました。次回市議会議員選挙も一生懸命、準備をしていました。未だに信じられない気持ちでいっぱいです。私たちですらこのような気持ちですから、奥様や子どもさんの胸中に思いをいたすとき、哀惜の念を禁じえません。
あなたは、熊本市で生まれ育ち、下関市立大学に学ぶなかで、社会変革をめざし日本共産党に入党され、卒業後も下関を第二の故郷として市内の自営業者の営業と権利を守る団体「下関民主商工会」の職員となりました。
1987年(昭和62年)、党の要請を受け、豊浦町会議員選挙に立候補し見事当選されました。以来、町議時代、党公認候補を複数擁立しても、それでも絶えずトップ当選を続けたことは、驚きと感動を持って長く語り継がれることでしょう。
あなたが、有権者の心をつかみ続けた背景には、日本共産党立党の精神である「国民の苦難軽減」に向かって取り組むあなたの一途な態度と、やさしい心根がありました。ゴルフ場問題、国立病院問題などは、町民の苦難あるところ「明石あり」と、当時は隣町であった下関市にも伝わってきたものです。
10年前、合併により、あなたと同僚議員となりましたが、あなたが、日本共産党下関市議団をやがて担う議員だということは衆目の一致するところでした。まさに、そのあなたを失ったのですから私自身にとっても大きな衝撃です。
そしてなによりも、これからも市議会議員として日本の政治や下関市政変革を目指して全力をあげてがんばりたいと願っていた、あなたこそ、無念だったと思うと哀惜の念に駆られるばかりです。
同僚議員になって以降は、日常的に行動を共にする身となりましたが、あなたは奥さんや子どもさんをこよなく愛し、折に触れ、私達に目を細くしてあれこれを語ってくれました。
また、ビールと温泉が大好きで、それもビールは銘柄にこだわりがあり、視察時などの夕食場所の選定は、あなたに決定権があったことなど、今となっては思い出となってしまいました。
こうした人柄を含め、あなたのご遺徳と、これまでのご功績は、本市政に携わる者並びに市民の胸に生き、長く称えられるでしょう。
申し上げれば限りなく惜別の情は尽きませんが、今は亡き故明石弘史議員のご冥福を心からお祈り申し上げ、ご遺族皆様の前途に限りなきご加護を賜りますことをお願いいたします。
我らが同志、明石弘史さん、安らかにお眠りください。 2015年3月3日 近藤栄次郎
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在りし日の明石議員
市議会追悼式
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